櫻井共和 ORENO Trademark〈女と猫〉
文・篠原 弘(美術評論家)
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ある劇団の十八番「CAT」は、人間が猫に扮しているわけだが、猫と人間とのこの時代の親密さがあって、初めて成立するお芝居なのかも知れない。その共感はニュー・ヨークのブロードウェイとか、東京とかの巨大都市があって成立を見る鮮やかな現代特有の文化、現代人の感情のひとつを表す世界なのだろうか。
「ORENO Trademark(俺のトレードマーク)」、と題された櫻井共和の〈女と猫〉の作品郡は、画人が同時代感情をたった二つの要素だけで描きあげた優美で親密な線痕の軌跡である。
15号S四枚、20号S四枚、30号S四枚、60号S三枚の15枚が、すでに完成していた。
色違いだが、全作品がほぼ同じ構図、同じ様式、同じパターンの簡素な仕上がりである。
下地は大半が、一見、何の手も加えていないかのように見える白。そこに単色だけでカタチが描かれている。いたってシンプルな絵画だ。15点の作品は、大半が異なる色彩。ルミナスレモン、ルミナスピンク、イエローオレンジ、フレームレッド、コンポーズブルー、コバルトブルー等によって描かれている。今回はカドニュームレッド(茶系の赤)がない。ブラックにシルバーを加えたグレーはあった。赤・青・黄色・緑・赤紫・黒(灰色)のバリエーションである。この中で個人的にはシルバーブラックが飛びぬけて美しい。緑色もいいが、黄色は映えない。
ラフな概観に見せてある絵は、達者な線ではなく、ぎこちなさを残した味わいの金太郎飴たちである。アカデミズムの枠にはまらない不ぞろいな兄弟・姉妹たちだ。
極限まで単純化されたそれらのカタチは、ぎりぎりのところで、なおも具象絵画であろうとする。その外観は限りなく版画、デザイン画、漫画に近い。フリーハンドの連作はタブローよりも、クロッキーにも近い。ちょっと見た目には、ものの一時間もあれば一作できそうに思える。
2
それにしてはどこか違う。何かが違う。
まず猫の顔が目に付く。
ほぼ画面の中央にあって、正面を見つめている。アメリカン・ショート・ヘアーの典型的な美形を湛えた猫顔である。額の上辺が平らで、目の形は少し釣りあがっていて、その形は上辺がアーモンド型、下辺が丸型。画家夫婦はNO1のアメリカン・ショート・ヘアーを育てた日本を代表するトップ・ブリーダーでもある。
女性の顔は目元と口元とが強調されている。特に大きく開いた唇は肉厚で、魅力的だ。
一方耳元には控えめな小さなイヤリングが上品よくのぞく。女性の髪形の全体は分からない。前髪三本だけの短めのカーブが快活でチャーミングな印象をあたえる。猫だけ前足を描いてある。
連作を見比べると、目元と頬のラインだけで多くの表情が表されうるものだとちょっと驚く。
日常の変哲のいないスナップ写真を元にしているそのフォルムは、アメリカン・コミックを思わせる明朗な女性像と擬人化された家ネコとの特殊な感情の世界がある。
女性の短髪や大きな目、しっかりした眉、大口の闊達な表情、そして元来はワーキング・キャットだったネズミ捕りネコの出自によって表現された室内のワンショットには、この時代のある親密な空気を抽出した匂いがあるといえよう。
画家は、画面左上、女性の目から描き始める。まつげ、髪、耳元、口、頬のラインと描いていって、猫の目に移る。猫の顔、胴体と描き進んで、最後となる足元は、右画面いっぱいのギリギリの描写もあれば、下辺に多少余裕のあるものもある。左上から右下へという流れが、スクエアの画面に相応しい明晰な構図を生む。
見比べると、女性の頬の輪郭線のひとつで、細身にも、ややふくよかにもなる。両目は、瞳の中で輝く焦点の位置ひとつで、多彩の表情をかえる。瞳の中の微妙な反射角度の違いによって、笑っていたり、澄ましていたり、八方美人(にらみ)の表情になったりする。
猫の目もそうだ。顔全体は正面を見ているが、瞳の中の商店を前後左右に微かにずらすことで、そのずれた方向を猫が見ているかのように感じさせる。
誇張すれば、まさに猫の目のようにくるくると表情は変わり、目は口ほどにモノを言う。長く接して見比べるほどにじんわりと感じられる肉筆の綾である。手作り、ハンドメイド、本物の絵画の醍醐味である。
その線は、水墨画や書の筆跡に近い一回性ようでいて、よく見ると一発で決めた線はひとつもない。慎重に精神を研ぎ澄ますようにして反芻を繰り返す作業を通じて入念に仕上げていった、ある幅と奥行きをもった生きた線帯である。
画面に近づけば、塗りなおしの試行錯誤の後が絵の具の調子となって浮かんでくる。
手首のためらい傷のように、命を削って探っていった線痕の軌跡には、生命の足掻きが内包されている。瘡蓋のように、幽かに絵の具が盛り上がっている。それは、絵画芸術と格闘してきた男の癒しの傷跡、大いなる創傷だらけの勲章を内包しているかのような豊かな線の厚みである。
極端に言えば、それは、平面の中にある立体的なアウトラインである。一種の塑像のような盛り上がりである。画家はわずかな絵の具の層で、キャンバス上のカービングとモデリングの双方を繰り返してきたと言ってもいい。盛り上げたり削ったり、描いたり拭き取ったりの描写の作業を、慎重に丁寧に繰り返した結果がそこにある。目に見えにくい絵の具の痕跡の中に、画人の半生の苦渋と喜びが湛えられているのである。
絵画的な要素を削っていき、最小限度のミニマムな線と単色とによって象徴した独自に仮象世界は、一見漫画チックである。だが、なかなかどうして、その外観とは裏腹に、意味するモノは過激で過剰である。
画家渾身の冒険がこめられているのだ。一種の浮世画(風俗画)と見てもいい。われわれの時代(現代史)の一齣を大胆に鷲づかみしているのである。人と生命の絆を告白するかのような柔らかい感情の精華が、坦々と表現されているが、極限まで突き詰められているといえよう。
アメリカン・ショート・ヘアーの子猫を抱く女性の半身像こそが、画人にとって唯一無二の救済の女神である。子猫を抱く女性を最小の線と色彩であらわすことに、画家人生の大半が収斂してきた決意の絵画である。結婚以来このテーマに彩られて、とうに四半世紀を軽々と超えてしまった。自己とこの時代を模索しながら絵画を純化してきた遥かなる歩みは決して軽くないが、その絵画の外観は解りやすい。単純で軽快である。
どうやらとびっきり挑発的な寓意を孕む〈逆説の絵画〉であるらしい。
3
極少の短い肉声によって絵画を成り立たせるその試みは、主観的にはマチスからトム・ウェッセルマンやアレックス・カッツを経て、画家にいたる現代絵画の回路を踏まえた、突出したギリギリの表現である。それは画人にとってのビーナス誕生であり、マドンナ賛歌である。かけがえのない生の証でもある。人生のすべてを絵画の歴史に投影した、究極の聖母像である。子猫は、幼子イエス・キリストのように、神の子・人間の子、腕白な子どものようにそこにいる。
私には「海外の原点って何ですか」と画家が問う手いるように思える。
「私の絵画は一途です」と自答しているようにも感じられる。
その軽やかな絵画に、塗り残しは、ひとかけらもない。
ただし、私が見つけたところによれば、この連作中の一作だけに、猫の短毛の縞がひとつ少ない顔があるはずだ。わざとではない。計算でもない。絵画だからそうなるのである。芸術を愛する精神がそうさせるのである。売れ筋の商品を作っているのではない。小奇麗なインテリアをつく低いるのでもない。気持ちをこめたからこそ世界が、共感をもって受け入れられることを願うのだ。
世界一短いラブレターは、ある女性から遠い赴任先の夫へ向けられた「ア ナ タ」の三文字だけだったという実話がある。無上の余韻は、我慢をすればするほど深く大きく。
画人は、絵の中で最愛の人を描く。アコースチックな響きをイメージしながら、素顔の自分を一色の絵の具にこめて、内面をさらけ出す。平凡の中に永遠を、淡々と執拗になぞり、反芻しながら線と面との痕跡として純化していく。
トリックはない。あえてパターン化したのである。巨大な芸術との真っ向勝負があるだけだ。沸き起こる〈愛の賛歌〉が宝石のように輝いているのだ。
それが分かる人は、それほど多くなくてもいい。だが何人かの同時代人には、その〈無言の絶唱〉を聞き届けてほしいと思う。
その絵画のイメージには似合わないけれど、あえて最後に一言すれば、美術家の父と母のもとで生まれた櫻井共和の絵画表現には、血みどろの死闘が奥深くで深耕している。宿命の、十字架の、殉教の、古賀春江のように「末期の眼」の自覚が、そこのあるはずである。






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